映像を「工芸」としてつくる。漆を塗り重ね、糸を織り、土を火に委ねるように、描き、撮り、切り、重ね、動かす手仕事から、光と時間のかたちを立ち上げます。目指すのは、楽しさの奥に静謐さをたたえ、年月を経ても眺め続けられる作品。画面を現代の器と捉え、日本の工芸に息づく素材への敬意、細部への眼差し、余白の美を映像へ受け継ぐ試みを「Film Craft and Art」と呼んでいます。

インディペンデント映画の世界を90年代に過ごしたニューヨークでたっぷりと味わいました。「FILM FOLUM」や「Angelica Film Center」へ仕事の合間に通っては、友人達と短編映画をつくったりジム・ジャームッシュやスパイク・リーの映画、ビート作家達の文学を語り合ったりする20代を過ごしました。そんな日々から時が経った今でもインディペンデント映画をつくるチャンスをいつも伺っています。大ヒットしている商業映画を見るのも好きですが、小さな映画館で見るギラギラした野心が見え隠れする作品はやはりゾクゾクします。僕はこれからもそんな野心があって時代を手玉にとるような作品をつくり続けたいと思います。

映像、写真、グラフィックを往来するなかで、人や作品の輪郭を形にしてきました。ここでいうBrandは、商品や企業だけでなく、映画やテレビ番組、アーティスト自身をも含みます。ウィリアム・モリスやバウハウス、ソール=バスが領域を越えて世界観を築いたように、Brandとは思想や佇まい、時間を記憶へと結晶させること。人が人を思い、人のためにつくる、見えない関係のデザインなのです。

小学生の頃におねだりをして買ってもらったヤシカのカメラ。大好きな鉄道写真を撮りたかったのです。いつの間にか無くしてしまって写真から遠のきました。22歳の時、1991年にニューヨークの蚤の市で50ドルで手に入れた古いハッセルブラッド500C/Mがまた写真を撮るきっかけでした。バシャッと大きな音を立ててシャッターが切れることがなんだか楽しくて、家の周りのダウンタウンを撮り始めた。仕事で行くのにもいつも持ち歩いて、ストリートの人々を撮った。後になってこの写真のジャンルはストリートフォトグラフィーというものだと知りました。僕はどちらかといえば映画の1シーンを観ているような感覚で撮っています。そして撮り続けています。人には物語があるなあと感じながら。仕事で依頼されて撮る時も同じ気持ち。人には物語がありますね。

デザインを学んだのは学校ではなく音楽や映像制作の現場でした。CMのタイトル、CDのジャケットアート、ライブやイベントのポスター、映像の字幕の書体、タイトルロゴなど、グラフィックデザインが仕事の現場に溢れていました。それらはアートディレクターの手によるものだと知った。そのアートディレクターの仕事は派手にすることだけが仕事でもなく、わざわざむやみに難しくする仕事でもなく、本来伝えたいことを誤解なく、気持ちよくスマートに伝えるのが仕事だということを現場の経験の浅いうちに知ることができた。それから時間が経って今となって観察しても世の中の「いいな」と思えるものの背景には優れたアートディレクターがいることがわかります。自身の仕事もそうありたいと願っています。

1997年に動くグラフィックデザイン=モーショングラフィックスという定義が世界に先駆けて東京から初めて打ち出された。その年「モーショングラフィックス展」という映像の展覧会が東京で開催され、タイミングよくその渦中に僕はいた。それまで映像という分野に身を置いていた僕はこの新しくて歴史の古いこのムーブメントに飛びつき、今でもその表現を続けています。決して簡単に作れるコストパフォーマンスのいい映像技法などではなく、1ピクセルの違いだけで表現できる奥の深いものです。だからライフワークにするには面白すぎるジャンルなのです。

20代でソニーに勤務していた頃に配属されたのが銀座のソニービルだった。毎日のようにイベントや展覧会が開催されて、ショールームなどもあった。展示の企画や運営、消防などの安全管理に至るまで、展示・イベント・ライブそれらの全てに関わることができた。多くの人に楽しんでいただくにはその背景に多くの準備や計画、さまざまな法律や権利があることを学んだ。楽しむには信頼が必要だ。アーティストや作品に対する信頼はもちろん、会場や街への安心感はとても大切です。期間が過ぎれば記憶だけを残して消えてしまう空間づくりとしてのExhibition Workはその後の僕のライフワークのひとつになった。そこで目にするたくさんの笑顔が何より平和を象徴していると思う。